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片田舎を想う朝に春の訪れを観て [管理人より]

神田川の桜.JPG

私は、今朝も何時もようにインスタントのコーヒーを愛用のカップに入れ、それを飲みながら外の木々を眺めている。今年も毎年の如く、それは気候などの変化で咲く時期の異なりはあれど、梅も桜も見事に咲いてくれた。目の前には或る宿舎の一本の桜の木、今朝は幸運にその満開を観ての一日の始まりだった。しかし午後も友人との約束があり、やはり花見がてらの外出である。先日、私は彼岸の中日という事もあってか、久し振りに遠出する。しかし上野駅から出発する一本の列車、それが何とも良い。そして序々に車窓に広がる景色も何となくカントリーさを思わせる田園風景で良い。私は洒落た都会さも嫌いではないが、でも自身の音楽性と照らし合わせて見ても、その片田舎さや田園の一面畑の光景は好きだ。愛用のアコギを手にしては鳴らし始めれば、或る意味で私達はこの情景を背景に何時だって何処だってそれを想う事には違いないのである。中にはアコギの代わりにガットを用いる者も居るが、当然、情景の描き方が同じであれば仲間と言える。そこにジャンルという仕切り板のようなものや各々のオリジナリティーさがある。音楽、一言に言っても実は専門性の土台は皆違う。ジョン レンボーンのようにクラシックをやってフォークに来た人も居ればその逆も居る。私にクラシックを教えてくれた恩師はその逆のパターンだった人だ。だからかその道一筋の専門家より柔軟で今となってはそれで私は良かったと思える。しかし私はあまり一つの枠に落ち着く事を嫌う者で、かえってそれが人と違う個性を形成付けた。つまり割と今日の多様を予測しコンテンポに消化する、それも浅からず深からず、というサジ加減、そうして独自性が確立されて行った。だからかアコギも今はコンパウンド ゲージを張った響きを出す楽器を道具にする。ヘビー、ミディアム、ライト、エクストラ ライト、フォスファーもブロンズ弦も一通り試した上でやはりそのようなサウンド感に私は基本的に聴くものも演るものも落ち着く方に向かった。チェット アトキンスないしムリエル アンダーソンの辺りが私の方向性とか基本スタイルというふうになる。つまりはそこに加わる要素が独自性に繋がる。最近、巷で山のペンションを想わせるログハウスを見かけた。そしてその市内の潮らしい風と何か春らしい気流が自棄に良いなと感じさせるのである。実は私が住む近くにもビリー ザ キッドという、その造りのステーキ屋さんがある。私は何度かその店を訪れハンバーグを頂いたのだが、店内にかかる古いカントリーミュージックが自棄にこの空間に合うなと感慨させるのであった。以前、丸太造りのアスレチックを観た事がある。しかし最近は近代化が進み、そのような遊び心のない公園や施設が増えている事に少し残念さを覚える。だが本日、神田川の桜を観た際、今ではここも毎春に訪れる地として私の中で定着した事を感じる。一本の桜の木を通してみても人にはそれぞれ想いがあり、一ヶ所の並木にその各々に異なる持つ人々がこの日本情緒さに酔い、共有しては帰り、またこの幸せを満喫し来年のこの時を待つのだなと感じる訳である。私は今日も何時ものようにAFN、ラジオに耳を傾ける。そこから流れる音楽は正に古き良きアメリカンさを想わせる。だからかアメリカン コーヒーが似合うのである。ビリー ザ キッドで食事をした夜、その食後に出されたコーヒーも美味かった。友人はブラックなのに飲み易い、と言い、その晩はそれぞれ家路に着く。ステファン グロスマンの奏でるようなボトルネックなカントリー ブルースがこのラジオから流れると、不意と私はその夜を想う。しかし朝という時間は実に清々しい。まぁ、サウンド ボードこそ、シトカ スプルース、イングルマン スプルース、ジャーマン スプルースと原産地の違いはあるのだが、その生まれ育った時空を超えて何か一つの音楽に一つになれる、一つのテーマや課題に取り組める、これはやがて大きな事に繋がる。この巨大なエネルギーやモチベーションを高める事の出来る時間は一日の中でも私は朝だけではないかと感じる。多分、来年も桜は咲くだろう。しかしこの間、私達は生命維持や他の生命を守る事以外にも立ち憚る社会問題とも闘って行かねばならない。

ステーキ ハウス ビリー ザ キッド
http://www.billy-the-kid.co.jp/

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超絶なるギタープレイ、ピーター フィンガー [フォーク]



超絶なるフィンガーピッキングプレイを聴かせるPeter Finger。この動画は彼のOpen Stringsというナンバー、そのプレイの一部始終を映し出している。この人はドイツのアコースティック ギターリストの一人とされ、我が国では知名度が低いものの確実に玄人を虜にした人物である。この人は今50代過ぎ、同時進行に歩んで来た人の胸の中には栄光高く今日だって輝き続けている事だろう。しかし音楽というものは極論世代ではない、だからそれらを愛するのは各自の自由であり、若い人がそれを聴こうが一向に自由である。本来はそうじゃなきゃ可笑しい。東京の新宿にはバック イン タウンという店があるが、そこは言わずと知れた国内外のフィンガーピッキング系ギターリストが毎晩の如く出演するライブハウスである。実はこの人もその店などに出てたりしている。私がこのような音楽を好んで或る日に見つけたアコースティック ギター リストを主に扱う専門店、その店は何度も赤字ローカル線に乗りながらも今も変わらなければ東京のとにかく西で頑張っている事だろう。 私はレオ コッケのようなスライドバーを用いてのスリーフィンガープレイも好きだが、このピーター フィンガーのようなプレイも嫌いな訳ではない。その時に単音を早弾きするプレイは、右手親指のサムピックをオルタネイト ピッキングし、他の指を混ぜたアルペジオの中に取り混ぜている。独自に編み出したチューニング方法も独特な音世界を構築して行くが、何より際立って目立つのは5分以上を越える中でも尽きる事のない左手指の動きだろう。DAEGADなどのチューニングを曲により変え、又、カポタストも使用している。この曲はどちらかというとジャズな響きも感じる。それは恐らく独自なチューニングと彼が創り出すコード感からなのだろう。



こちらの動画も同じくPeter Finger、今度はVive la Vieというナンバーです。しかしこの人の作品からは何となくスパニッシュな香りを感じます。私は人のギターを色々と好み聴く中でフラメンコという音楽、それはスペインの舞踊に使われているものですが、これは何かそのような香りとか何ともエスニックな料理を食べた後のような余韻を聴いた後に感じます。それはこの人のギターにも味として出ているのではないかとも思うのですが、弾き方はやはりアメリカンな部分もあり、でも、それをこの人なりに消化して自分のものにしている所もあり、こうなると我が国に浸透性が薄いという現実を時に恨みたくなったり、これだけ複雑だからしょうがないかと思ったりと、内心、聴き過ぎればこのような錯覚にも陥る可能性は無いとは言えないでしょう。しかしその巧みなプレイの中で彼は歌心を決して忘れている訳ではなく、それは力強いピッキングの一つ一つに現れている、私は実際に聴き思う所です。私達の世代では多くが70年代というとソウルとかロックを聴いていますが、そのロックからフォークというルーツへ行き、このような所に辿り着く人は少ないのが現実です。今の時代は楽器を弾く技術が無くとも音楽創作自体は知識さえあれば可能なのですが、でもしかしこのような方向性も根強く人気があるのも現実のようです。今、楽器店のアコギ売場に行けば必ずこのようなものを聴きコピーしている店員に当たるのがポピュラーなのですから。とにかく、この二つの曲も二十世紀の中で創られ発表されていたもの。今後もこのようなジャンルは環境音楽の枠に嵌められ、恐らくこれらは数居る中で選ばれる事なく玄人の胸の中にこれからも生き続けて行くのでしょう。最近はCMなどでメジャー所の押尾コータローの楽曲が多用されておりますが、相変わらずバック イン タウンでは岡崎倫典、小松原 俊、小川倫夫などの演奏も聴けます。本当に老舗所に頼りっぱなしなアコギ業界です。


28歳の若さで死したアシッド界の栄光、ティム バークレイ [フォーク]



暫くこのウェブログを更新する事なかった時間、その時間に感じていたものは自然回帰へのメッセージだった。私は凍える程の冷めた都会のアスファルトを歩き一軒のレコード屋に辿り着く。その店の中で包まれるように耳に入って来た歌声、それはTim Buckleyの曲だった。何もかもが二十一世紀さながらにクールな色合いを見せ付けてくれるが、その寂れた一軒のレコード屋さんだけは何故か温かかった。Tim Buckley、この人はアシッド フォークの方では知られた人物であるが、実は1975年の9月に28歳の若さでこの世を去っている。又、息子のジェフも1997年に31歳の若さでこの世を去っている。この父、ティムは丁度、安保の時代に、戦争などという愚かな争いは止めろと、時にそのメッセージを大衆に歌を通して訴えた。サウンドは現在のアヴァンギャルド系にも通じるベルなどの音が効果的に入っており、それがアシッドさを醸し出している。



或る日、その寂れたレコード屋から漏れる歌を聴いた私は、次第にこの人の事が気になり始めた。すると雪降る中をコートの襟を立て、この人の貴重なる音源を探した。この世に出されたアルバムは全7枚、その一枚一枚にはその時ならではのメッセージからなる音が込められている。この曲は恐らく最後に出たライブ盤なのだろうか、パーカッションに乗せて歌う彼の魂が今の時代に息吹きを吹き込む。何かとオーバーラップする時は人それぞれにあるものだから、きっとこれを見に来ては何かを思う人は必ず居る事だろうと思う。私は最近ラジオやテレビから流れる煩く喧しい音に疲れていた。そして、このウェブログを暫く更新する事なく、自然に帰ろうと決め、足を西の方へ進めていた。その自然美な光景が目に入ると、直ぐに足元に戦争の傷跡が整備と言う名の下でごまかすかのように造り替えられている事に気がついた。70年代後半、青山公園のテント、今は伝説の名に挿げ替えられた森田童子氏は、私達のような者が、このようなテントすらまともに張れない環境の元で消え行く事を訴えていた。その暗さは当時の社会、そして今、現代音楽が死に行く中で再びオーバーラップする。


もう一人のスローハンド [SSW]



2011という新しい西暦、それに託す人々の心境は、今、様々だ。これから旬の地上デジタル放送に熱心になってしまうと、本当に大切なものを失い兼ねない。私は日常の中で、その狭間に揺らされていた。今月は暫く年明け後からゆっくりと、それは人行く姿を見ながらに、私はこれまた時代の流れに流されずに自身のスタンスを通す男のミュージックに耳を傾けていた。それがこの人、J.J.CALEであった。私は彼の5枚目のアルバム、そのアナログレコードを所有している。それは「5」という数字文字がやたらと大きく、インパクトを感じた私は迷わずそれを買ったのだった。しかしこの人のアルバム、全ての楽曲には彼の独特なキャラクターが生きている。ブルース、カントリー、R&B、ロック、ミニマルなどのエッセンスを程好く消化した上で調理される彼独特のメニューは好む人を釘付けにした。今もこの人のアルバムを愛するリスナーは後を絶たない。「LIES」、それはR&Bでありながら、その中に彼の良い感じのブルージーなギターが絡み絶妙な味を出している。



皆々、このようなアーティスト一人に対して全部の曲を聞く場合とそうではない場合との二通りがあると思う。しかし私はどちらかというとこの人の曲は皆好きである。それは同質な人間の匂いを感じるからだと思う。それに関して言えば国境など関係ない。寧ろこの類は極稀なのだから貴重とも言えよう。私はかつてエリック クラプトンのアルバム、スローハンドにて同じ「COCAINE」を聴いていたものだった。しかしこの人の「COCAINE」は割と好きかも知れない。それは彼独特のボーカルにも味があるからだと思う。かつてドラマだったと思う、テレビからワンダフル トゥナイトが流れていた。私はこれが収録されていたからかどうかはもう忘れてしまったが、スローハンド、そのフェンダーのストラトキャスターのジャケットを買った。現在、出回っているアルバムには、この二人が共演した模様を収録したものがある。しかし、J.J.CALE、この人の作品はメジャーなクラプトンとは対格な風格がある。私はそれを味と表現したが、正に何時どの時に聴いても色褪せないブルージーで落ち着いたギターは感慨させられる他に引き付けられる魅力を聴く度に感じて止まない。それは時にロックスピリットでもあり打ち込み要素の入ったミニマルさもあり、本当、色褪せる事すらない。ニール ヤング、マーク ノップラー、ブライアン フェリーなどは彼を尊敬している人物に挙げている。


新春と雅楽の関係を考える [ワールドミュージック]



皆様、明けましておめでとうございます。今年もアコースティック クラブを宜しくお願い致します。早々、私の所は正月三箇日中の元旦朝に初詣を済まし、氏神様から行き付けの神社を回り御神酒を頂きました。私が住む辺りにも何箇所かの神社が点在しておりますが、圧倒的に香取、天祖、稲荷などの神社が目立ちます。その内、香取の所が一応氏神様になっており、以前から縁がありました。しかしそこは御神酒は無く、通りを隔てて隣の区、葛飾の天祖さんに行かなくては御神酒は頂けません。しかしこれも私ども毎年の恒例でありますからこの儀式を省く訳に行かず、最後に私はそちらに寄り、人っ気すらない清々しい晴天の下を歩いて帰宅しました。まぁ、その時から既に2011年はスタートしておる訳で御座いまして、今年もこのように引き続きアコースティック クラブはスタートして行く訳です。しかし正月の神社に良く流れている雅楽、本当に元旦のラジオ放送からはこんな感じの独特な龍笛などの響きが木魂しておりまして、なかなかその気分にさせてくれるものです。最寄の神社では大晦日からの年明けのみしか雅楽を聴く事は出来ません。でも、意外に神社という所も音楽との縁が強い所であります。これも十分に生ですから当然アコースティックなのです。



新春らしい響きを追って行きますと何故かこの一曲、「さくらさくら」に辿り着きました。雅楽の龍笛で奏でられるとこのような感じになるのですね。まぁ、笛にも色々な種類が在り、そのジャンルジャンルで使われているものはそれぞれの特徴があるものです。同じく「さくらさくら」という楽曲をそれぞれの楽器で独奏した場合、意外にこれはそれぞれの楽器の持ち味が良く判るものでして、例えばピアノでやった場合、ギターでやった場合、このような純邦楽の民族楽器でやった場合、それぞれに特徴や持ち味が良く判るものです。特に西洋楽器の場合、これはどうしても日本本来の純邦楽的な音や響きないし不陰気を創るにはしっくり来ず、同じく弦楽器でも意外に気持ち悪い音を持ち味とする琵琶とかの方が意外に合うものです。まぁ、ギターでもシタール的な効果を出せる人は例外ですけれども、意外に半音の間の微妙なニュアンスを表現出来る楽器と言うのでしょうか、何となくそういうものの方が面白い気も致します。ですから学校教材のソプラノリコーダーじゃつまらないという事です。本来、この楽曲の持ち味ないしポテンシャルを引き出せる楽器は純邦楽の琴とか尺八とかそういうものなのですから。又、西洋の人達でも、この辺りの研究に熱心な人が西洋楽器を改良して似た効果音を出すに至っているという事なのでしょう。段々と日本人は日本古来からの文化を軽率に見て扱うようになってきております。その現れは今の町に立ち並ぶ大量生産型志向の箱物住宅に現れております。


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